I->Read(Books); 〜とあるフリーランスIT技術者の本棚〜
プログラミング教育の必修化に思う~「小学校にプログラミングがやってきた! 超入門編」
2020年、小学校でプログラミングを必修化しようという話になっているのは、読者の皆さまもすでにご存知のところかと存じます。
プログラミング必修化の話を聞いて、メイン読者層であろうIT技術者のみなさまはどう思われるでしょうか。
筆者が思うのは、「プログラミングを必修化するのは良いとして、何をどうやって教えるのか」ということと、「本当にそれはすべての生徒たちにとって必要なことなのか」という2点です。
筆者は、こちらのLittle Coder Mieというプログラミングワークショップで、ボランティアスタッフとしてプログラミングを教えています。
http://ws.moyashi-koubou.com
学校の授業でプログラミングの面白さを伝えられるのか
さきほどの「プログラミングを必修化するのは良いとして、何をどうやって教えるのか」という疑問にかかってくるのですが、教えるなかで次のようなことを自問自答しています。
「プログラミング教育が必修化したとして、先生たちは本当にプログラミングの意義を理解して生徒たちに伝えることができるのか」。
「そもそも学校の授業でプログラミングの面白さを伝えられるのか」。
たしかに、ワークショップを受けることで生徒さん達はプログラムを作れるようになるし、めきめき上達してくのが見える生徒さんもいらっしゃいます。
とりわけひと昔前の日本では、「根暗の代名詞」として、極めて社会的地位が低かったプログラマという生き方が市民権を得て、それを勉強したいという人が出てきてどんどんと成長していくのは、ひとりの開発系IT技術者として嬉しい限りではあります。
しかしながら、生徒さんたちがプログラマになりたいと切に願い、今後もそうあり続けるなら100%歓迎できることではあるのですが、そうでない場合は果たしてどうなのでしょうか。
生徒さんに対して、いま教えてあげるべきことは、何らかのプログラミング言語で好きなようにプログラミングできるようになることだけで良いのかという思いが筆者にはありました。
そうしたときに、今回紹介する本に出会いました。
小学校にプログラミングがやってきた! 超入門編
編著者: 上松恵理子
発行: 株式会社 三省堂
(引用元:https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen6edu/pschprgmcome/)
必要なのは情報学とコンピュテーショナルシンキング
この書籍のなかで著者は、真に教えるべきはプログラミングそのものではなく「情報学」と「コンピュテーショナルシンキング」ではないかと述べています。
情報学とは、情報について探求する学問を指します。何から情報を得て、それをどのように扱うのかについての学問です。
コンピュテーショナルシンキングとは、プログラミングのための各種の原理に即した形で物事を考えることを言います。
この主張を読んで、筆者のなかでひとつの仮説が生まれました。
いま「プログラミング教育」と言われているものは2層構造になっているのではないかというものです。
第1層は、情報学とコンピュテーショナルシンキングです。
第2層は、プログラミングでソフトウェアを作ることです。
第1層の上に、第2層が乗っている構造を想像してください。
そして、プログラミングを学習する人たちは、上にある2層から掘り進めて、その下にある第1層に至るイメージです。
おそらくですが、プログラミング教育が必須と考えて、教育の場に盛り込みたいと考えた人たちは、第1層に着目しているのではないでしょうか。
ところが、現場レベルや、親御さんたちは第2層を指して「プログラミング教育」と捉えているのではないかと思うのです。
筆者が持っていた「本当にそれ(プログラミング教育)はすべての生徒たちにとって必要なことなのか」という疑問は、この層の違いを意識したときに解けたように思います。
たしかに、今後IoT(Internet of Thing)からさらにIoE(Internet of Everything)と言われるところまでコンピュータが社会に浸透すると、まちがいなく情報とコンピュータの扱いは「必要最低限の教養」となってきます。
その「必要最低限の教養」は、第2層であってはいけません。第1層であるべきです。
ただし、第1層についていきなり知るのは難しいので、まずは第2層について知るというアプローチは、自然と言えば自然と言えます。
筆者の仮説が妥当であるとするならば、今後は第1層への到達をいかに意識して、第2層を教育の現場に取り入れるかという考え方を教える側はしていかなければならないのだと考えます。
フィンランドの一部の学校では、プログラミング教育の一環として、小学生がチームで話し合いながらひとつのゲームを作るという授業をしていると書籍には記されています。
これは、共同体制、協働体制というものを教える一環となっています。
たしかに、ソフトウェアを作るときに、そこに関わる人間同士がコミュニケーションをすることが大事になるので、これについては良いことだと思います。が、これもやはりどちらかというと第2層の教育を強く推し進めるものではないでしょうか。
必修化が目指すべき未来
たしかに今後、必ずしも人間がする必要のない作業を機械にさせて行こうとするうえで、コンピュータやソフトウェアに関する知識がより多くの人びと求められることは言うまでもありません。
しかし、だからといって皆がみな「情報学」や「コンピュテーショナルシンキング」にまみれて生きるべきなのでしょうか。
どう考えてみても、そうは思えないのです。
「情報学」や「コンピュテーショナルシンキング」にまったく触れないということは、先ほど述べた「必要最低限の教養」のこともありますので、ありえないことかと思います。
しかし、「情報学」や「コンピュテーショナルシンキング」の習得はほどほどに留めて、別の思考法、学問を志す人により多く現れてほしいと、ひとりのプログラマとして思うのです。そして、「情報学」や「コンピュテーショナルシンキング」の恩恵を受けることで浮いた時間、労働力で新たな分野を開拓して欲しいのです。
そこまで考えたうえでの「プログラミング教育」であれば筆者は賛成ですし、プログラミングを必修化させた人たちの狙いはそこにあると筆者は信じています。
けれども「いま学んでおけば、自分の子供だけはコンピューティングの世界で生きていけるから安心だ」と言ったような「他の人との差別化」のためにプログラミングを利用するつもりなら、それはやるべきではないと考えます。
それはまさに、第2層で終わってしまうプログラミグ教育です。
ここはいちど、「情報学」や「コンピュテーショナルシンキング」によって時間や労力を手に入れた未来の大人たちが、なにを想い、何をしていくのが幸せなのかも含めて、現在の大人たちが考えるときに来ているのではないでしょうか。
平岩 明憲
フリーランスのIT技術者です。業務系システム開発をメインにしています。有限責任事業組合アプライトネスのメンバーです。とあることがきっかけで「IT技術者が、さまざまなことについて、いろいろな人と話し会える場が必要だと」と思い立ち、読書会を立案。2012年に「伏見なんでも読書会」をはじめました。